デザインとグローバル。
統一感の有無
グラフィックに関わらず、何かシリーズのものを作ろうとしたとき、みんなにシリーズだと分かってもらうるように「統一感」を出そうとするのはよくある流れ。
むしろ、そのような場合がほとんどだと思います。
また、一見すると統一感のないシリーズ販促が作られたとしても、そこにはシンボルマークであるロゴなどが一つの共通キーとして存在感を放っていたりします。
例えば前衛的な広告であっても、隅にスタバやグーグルなどのロゴがあれば見ている人に「あぁ、あそこの広告だな」とか「あの商品のシリーズだな」といった認識を持ってもらえますよね。
このことはブランディングの一部としてとても大事だと耳にタコができるくらい言われている事柄です。もちろん私もそう考えていて疑う余地もないと思っています。
しかし、とある仕事で外国人講師の方が使う資料を制作していたときのこと。
その資料は各デザイナーが手分けしてそれぞれの持ちページを作っているので、本来ならクライアントの会社の商品としてどこかに「共通項」や「統一感」を持たせるモチーフやあしらい、ロゴなんかを入れるのが通常のやり方です。
けれど制作指示に共通項目の記載が無かったので、「入れた方が良いんじゃないかなぁ」と思っていた矢先、クライアントが会議で一言、「アメリカ人、インドネシア人、シンガポール人、いろいろな人が使うものなのに統一する必要ある? むしろ統一感っている?」とおっしゃいまして。
変わらず他のデザイナーと共通項もなく、好きに作っていいことになりました。
唯一守るのは文字の大きさくらいです。
通常のブランディングのレールからは外れてしまいますが、そのグローバルな考えに、思考に少し風穴が空いたような気分になりました。
“デザインには正解がない”などとよく言いますが、制作をするうえで「セオリーとしての正解」は存在し、すでに多くの細かい仕組みやルールが作られ当たり前のようになっています。
それを覚えてしまえばある程度のレベルの物が作れてしまうので、本屋にあるデザイン系書籍コーナーではそのようなルールにちなんだ本がたくさん出ていますよね。
オンラインウェビナーも盛んに行われていて、私も時々お世話になっています。
けれど上記のような、それらの仕組みやルールに乗っ取らない事例もあるのだなぁと思ったと同時に、「グローバルってこういう思考なのか」と腑に落ちる出来事でした。
1.5割の中のサイクル
デザインの制作ルールや仕組みというのはすでに型にはまりつつあって、もう少し各個人の「裁量」みたいなものが自然に認められるようになれば良いのになぁ…と思う次第です。
現代はもう様々なものが“作り尽くされた世の中”。
新しいデザインをしようとすると突飛なものになってしまったり、対立を煽るような刺激的な文言を使わなければならなかったり。
けれどそこにグローバル的な思考が絡んでくると「もっと自由に」「各個人、良いと思ったデザインの物を作ればいいんじゃない?」…なんてことも頭をよぎります。
まぁそんなことを言おうものなら、「じゃぁ芸術家にでもなれば?」と言われてしまいそうですが…。
とりあえず「今良しとされているデザイン制作のための多くのセオリー」が自身にとって少し窮屈だな、と心のどこかで思っていたことを思い出しました。
日本のデザインの大半は日本で作られ、日本だけで消費されることがほとんどです。
日本の人口は世界のうち1.5割程度。
このたった1.5割の人口の中でデザインが回っています。
デザイナーの人数が増えたところで、全体の仕事の数は変わらないので結局は仕事が少なくなり、職種としての一人ひとりの報酬が低下するのだと思います。
もちろん職業としても地位も。
今後、受注も納品も当たり前のように外に飛び出す日々は来るんでしょうか。
もっと海外に向けて開かれるようになったらとても素敵ですよね。
むちゃくちゃ面白そうな気がします。